2009年06月16日

テンジャンは、朝鮮半島の伝統的な

テンジャンは、朝鮮半島の伝統的な基本調味料(醤)。大豆を醗酵させて作る発酵食品であり、日本の味噌に対応するため、日本では韓国味噌とも呼ばれる。テンジャンとは、「固い醤」を意味する。

伝統的には、テンジャン作りは冬の初めから行われる。大豆をゆでて臼ですりつぶし、豆の形が残るくらい粗めのペースト状にする。これを一定の大きさに固めたものをメジュ(??)という。メジュはテンジャンのほか、カンジャン(醤油)、コチュジャンなど大豆発酵食品のもとになる。
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メジュはオンドルパン(オンドル部屋)のような暖かい部屋に置いてカビが生えるまで待ち、藁でくくって冬の間部屋に吊り下げ、枯草菌(Bacillus subtillis、納豆菌などの仲間)による発酵が進むようにする。この間、枯草菌は大豆のタンパク質と水分を消費して増え、発酵が終わると胞子や内性胞子に変わる。発酵の間は不快なアンモニア臭がすることもある。メジュは発酵を促進するため、暖かく、湿気や換気の調整された場所に置く必要がある。

メジュの大きさにもよるが、1ヶ月から3ヶ月後(早春の頃)には日光に当てて乾かし、大きな壺の中に塩水とともに入れて更なる発酵を待つ。この間、牛乳がヨーグルトに変わるように、様々な有益なバクテリアがメジュをビタミン豊富なかたちに変えてゆく。発酵が済むと、壺の中の固体と液体は分けられる。液体のほうはカンジャン(醤油)になり、固くて塩辛い塊のほうはテンジャンとなる。日本の味噌とは異なり、テンジャンは大豆が完全にすりつぶされておらず、大豆の形の残ったものが多く混ざっている。

各家庭で作った伝統的なテンジャンは大豆と塩水のみからできているが、工場で作るテンジャンは小麦粉や麹を混ぜて発酵させることも多い。また風味を増やすため、発酵させて乾かしすりつぶしたアンチョビを混ぜる業者もある。

2009年05月30日

永禄9年(1566年)、朝廷の許可を得て

家康個人が「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)し、従五位下三河守に叙任された。このとき正親町天皇は前例のない申請に対して躊躇したが、新田氏系得川氏が「藤原氏」を称した前例が公家の奔走により見つかり、許可された。このため当時の記録に「藤原家康」の署名が残っている。慶長8年(1603年)に家康が源氏長者・征夷大将軍に任ぜられるときには、「清和源氏」となっていた。

ここで重要なのは、松平一族が徳川に改姓したのではなく、「徳川」は家康個人のみに許される称号であったことである(嫡男の信康については、名乗った説とそうでない説がある)。「徳川」姓は、家康個人が松平氏内部で専制権力を確立して松平一族と家臣団を統制するために使われたと考えられる。初代家康が慶長10年(1605年)に将軍職と当主の座を辞して隠居するまでに徳川姓を称したのは、世子の秀忠ただ一人であった。公認される限り十一人いた家康の男子で徳川姓を許されたのは、三男で世子の秀忠、及び御三家の祖となる九男義直・十男頼宣・十一男頼房[2]の4名にすぎない。後の3名は、秀忠が二代当主(将軍)になって以後に元服したものである。

徳川氏の系譜は、系図上は清和源氏の新田氏の支流得川氏の末裔と位置付けられており、従って本姓は源姓であり、源朝臣という。一説には、当初朝廷の許可では徳川氏は源姓ではなく藤原姓の氏族として認められていたが、家康が江戸幕府を開くに当たって、幕府の長たる征夷大将軍は源氏という慣例があったために、系図の粉飾が行われたのだとも言うが、実はそれより先の1567年に三河守を受領するために、すでに系図の粉飾が行われている。
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三河守を受領する前の家康の官位は蔵人佐という低いものであったが、三河統一を成し遂げ名実とともに三河の支配者となった時点で、三河守受領のために必要な位階を家康は持っていなかった。三河守受領の為の位階は従五位下に相当するが、当時の慣例では、従五位下の位階を与えられる姓の系統は限られており、祖父松平清康がかつて世良田氏(得川氏の同族)の末裔であると主張している故事に倣って、「松平氏は得川氏の末裔」説を唱えはじめ、系図を新田氏につなげたのである。[3]足利氏でなく新田氏を選んだのは、隣接する今川氏が足利一門の名門で、足利系統の系譜に精通していた事が原因といわれている。

しかし、同時代史料による限り、3代信光は賀茂朝臣姓を名乗っており、おそらくこれが松平氏の最も古い本姓であろう。しかしこの姓では、官位受領などで不利に扱われると考えたのか、すでに信光のころから源姓を称しており、家康は若い頃はむしろ藤原姓を称している

2009年04月27日

蛸壺の歴史

兵庫県の明石がその発祥の地といわれ、周辺の遺跡からも蛸壺が発見され、その歴史も弥生時代まで遡る。その後、蛸壺漁法は同心円状に広がりを見せ、古墳時代後期以降になると瀬戸内海一円に広がり九州北部にも散見されるようになる。なお、北海道などでは四角い蛸箱が使われる。

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蛸壺と文学
松尾芭蕉

蛸壺やはかなき夢を夏の月
”夏の月が、こうこうと夜の海面を照らす海の底で、蛸壺のタコは捕らわれの身とも知らず、なんとはかない夢をむさぼっていることだろう”という意味に解されている。また、”はかなき夢”には、平家一門にまつわる哀れを重ね合わせているという解釈もある。

元文3年(1740年)江戸生れの俳人・松岡青蘿が、明和5年(1768年)、芭蕉75回忌にあたって、明石人丸月照寺境内に「蛸壺塚」を建立している。

その他
蛸壺が大抵小さいことから、転じて一人用の塹壕、いわゆる「蛸壺壕」という用語として軍関係者から言われている。
隠語の一つとして、女性器の名器を「蛸壺」と表現することがある。

2009年04月10日

Cisトリルキー

Aisレバーの上流にあり、B-C#のトリルを容易にするための右手人差し指で操作するキーである。それだけではなく、第3オクターヴのG-A (G6-A6) のトリルも容易になり、弱奏におけるG#6の発音が容易になる。Cisトリルトーンホールは、DトリルトーンホールとBトーンホールの間にあり、主要なトーンホールと同じ大きさで、Bの運指にCisトリルキーを押すとC#のピッチが合うように設計されている。また、通常のCisトーンホールは極端に小さいため発音の困難、ピッチの不安定、音色の問題が伴うが、トリル以外のCisにもCisトリルキーを活用することで、これらの欠点を補うことが可能である[1]。デメリットとして、D5・D#5・D6の音色・音程を若干犠牲にする、楽器が重くなる、取り付け費用が高価であることなどが挙げられるため、Cisトリルキーを標準装備するメーカーはほとんどないが、アメリカでは非常に人気のあるオプションである。

^ ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」冒頭のC#で始まるフルートソロは、通常のC#の不安定な音が幻想的な曲想を高めるために用いられている。

G-Aトリルキー [編集]
第3オクターヴのG-A (G6-A6) のトリルを容易にするためのキーである。かつてドイツのフルートでよく使われたメカニズムであるが、現在では同じ機能をCisトリルキーで実現できる上、前述のように用途も広いためCisトリルキーに取って代わられつつある。

GisクローズシステムとGisオープンシステム [編集]
表側にGisトーンホールが1つもつものが「Gisオープン式」、表側と裏側にGisトーンホールを2つもつものが「Gisクローズ式」である。日本で「フルート」と呼ばれるものは基本的にGisクローズである。両者の運指は一緒ではない。日本にもGisオープンシステムのフルートを愛用するプロ奏者は存在する。

Gisクローズ式では左手薬指を押すとG,Gisトーンホールの双方が閉じ、左手小指を押す事により裏側のGisトーンホールが開く仕組になっている。

Gisオープン式ではGトーンホールを左手薬指、Gisトーンホールを左手小指で押して閉じる。

フルートの響きはトーンホールの数、及び管体に座金を半田付けした面積に比例して悪くなると言われている為、トーンホールを一つ分、座金、ポスト1セット分を節約できるGisオープン式の方が音色が優れていると言う見方がある。 又、G♯やE♭3等、Gisトーンホールがあいている状態の音において、カップの開放の方向が前方を向いているか、後方(下)を向いているかが奏者に対し大きな響きの違和感を与える。通常フルートの音は歌口を含めた開放された全ての穴から発せられるので、その穴が後方に向かって開放されていたのでは響きが前に飛ばないのは明らかである。

しかしこのオープン式の運指では常に左小指を動かす事が要求されるためGisクローズ式に比べ指回しが激しく困難になる。この点がGisクローズ式が広く世界に分布した理由である。

Gisオープン式では前述の「Eメカニズム」をオプションで取り付ける必要がない。

アメリカ、ヨーロッパ、アジアにおいて一般的に使われているのはGisクローズ式であるが、ロシアを始めとする東欧の諸国ではGisオープンが現在でも珍しくない。

フルートの教則本の著者として有名なP・タファネルの使っていた楽器は左手小指のレバーを押すとそれまで塞がれていたG♯のカップが上に上がると言うシステムのものだった。これは現在のメーカーでも再現可能だが、機構に若干の抵抗が存在するため耐久度は決して高いものではない。

ソルダードトーンホール(ハンダ付け)とドローントーンホール(引き上げ) [編集]
金属製の楽器の場合、トーンホールが管体から立ち上がってキー(タンポ)と密着しているが、この立ち上がり部分をどのようにして製作するかによる分類である。「ソルダードトーンホール」は管体となるパイプに別の部品をはんだ付けすることによりトーンホールを作成するのに対して、「ドローントーンホール」はパイプそのものを引き上げ加工して、トーンホールを形成する。管厚やキーメカニズムなどが同じであれば、ソルダードトーンホールの方が重くなる。ソルダードトーンホールの方が吹き込む際に抵抗感が増すとされる。比較的安価な楽器の多くはドローントーンホールである。

特殊奏法 (現代奏法) [編集]
フルートは近代音楽や現代音楽において特に特殊奏法が多く開発された楽器である。一つの奏法を取り上げても作曲者や奏者により様々な呼称、やり方がある。特殊奏法については未だ発展途上であり新しい奏法が今後も開発されていく事が予想される。

エオリアン・トーン(ブレス・トーン)
発音と同時に息が歌口や歯の間から漏れる噪音を発する奏法。通常の奏法からライザー部にあてる空気の柱を極端にぼかす事により生じる。楽音は存在するが空気の流れる音の占める割合のほうが大きい。この割合が作曲者によって細かくパーセント記号で指示されている物もある。
キィ・パーカッション(キィ・クリック、キィ・クラップ)(英語:key percussion)
キーを強めに叩くことにより、打楽器的効果を狙った奏法。エドガー・ヴァレーズの『密度21.5』で初めて用いられた。(厳密には『密度21.5』に登場する奏法はスタッカートの通常奏法とキィ・パーカッションとの併用である。)
口笛
フルートとの通常奏法と同じ構え、または唄口内に口笛を吹く事によって通常の口笛よりもフルートの管に共鳴させた音を作り出す事が出来る。その際発生する音は運指の自然倍音列上の音である。口笛を吹きながらフルートの通常音を鳴らす事は理論上は不可能であるが、口笛の音+エオリアン・トーンであれば可能である。
ジェット・ホイッスル(英語:Jet whistle)
歌口を唇で完全に覆い、息を激しく吐き出す事により発声した息音を使用する奏法。唇、フルートの角度を瞬時に変化させる事で息音内に含まれる楽音を自然倍音列に従い上昇、下降させることができる。発声する楽音は運指によっても変化する。
重音奏法(英語:multiphonic)
特殊な運指により2音以上の重音を出す奏法。運指により、調性的な和音に近いものから、割れたような荒々しい音を出す事が出来る。R・ディックのフライング・エチュードではこの重音奏法が全体にわたりフューチャーされている。重音の運指の書かれた文献としては小泉浩、P・E・アルトー、O・ニコレの物が有名である。
循環呼吸
内容については循環呼吸の項を参照。現代作曲家による指示、鍵盤楽器、弦楽器への音楽的なアプローチ、音楽的なフレーズ作り、等の理由により近年フルート界でも一般的になりつつある奏法。特にフルートは他の管楽器に比べて空気の消費が多い楽器であり、循環呼吸をマスターする事により音楽的な質をより高める事できるというメリットの点からも推奨されている。その事はいくつかの著名なフルーティスト達の著書において「現代奏法」の項に「循環呼吸」についての説明が必ず記載されていることからも判断できる。(O・ニコレ、P・ガロワ、R・ディック、W・オッフェルマンズ等)
スラップ・タンギング(ピッツィカート、リップ・ピッツィカート、クアジ・ピッツィカート)(英語:slap tonging 伊語:pizzicato)
弦楽器のピッツィカートに似た音響を発する。通常のタンギングの圧力を高めるやり方、舌を唇にあて内圧で弾くやり方、両唇を弾くやり方等がある。グランド・フルートではC4(B足部管つきでB3) - D#5までは通常の運指で、さらにオクターヴキーを開ける、その他の操作をすることによりD#6まで発音可能。
タングラム(英語:tongue ram)
唇全体で歌口を覆い、舌を勢いよくライザー部に当てることにより、管体に共鳴させる。これによりフルートは閉管構造として共鳴するため、運指よりも長7度低い音が出る。グランド・フルートでは運指上でC4(B足部管つきでB3) - D#5まで可能、実音ではC#3 (C3) - F4までの音が出る。サルヴァトーレ・シャリーノが『魔法はどのように生み出されるか』でこの奏法を積極的に用い、太鼓の連打音のような音響を生み出すことに成功した。フラッターツンゲと組み合わせることによりフラッターでの伸音も可能であり、これにより従来のフルートよりもさらに下方のいわゆる金管楽器でいうペダルトーンに似た効果が出せる。この効果もシャリーノが多用している。
ハーモニクス(フラジオレット、倍音奏法)(英語:harmonics)
低音域の運指のまま高い倍音を出す奏法。曲によって力強い音を出したり、弦楽器やハープのハーモニクスのような虚ろな音響効果を要求したり様々である。フランツ・ドップラーがハンガリー田園幻想曲の第1楽章の終わりに用いている他、ハーモニクスの和音がストラヴィンスキーの春の祭典にも登場する。倍音成分の度合いを変化させる事で重音を出すことも可能。
バズィング(トランペット・アンブシュール)
歌口に対し唇を閉じた状態で押し付け金管楽器のバズィングと同じやり方で唇を振動させ音を鳴らす奏法。息の圧力や指を変えることで色々な音域が出せるが、フルートのマウスピース、管は金管楽器のようにバズィングをして発声を促すのには向いていないためスケールは安定しにくい。非常に高い圧力が必要な事から、この奏法をした直後は唇に激しい疲労感を覚える為、長時間のフルートでのバズィング奏法は注意が必要である。
発声奏法(プレイ・ウィズボイス、グロウル)
通常演奏と同時に声を出すことにより差音がハウリングを伴い発生する。フルートの一音程の通常音と同時に奏した場合に、高い声と低い声では発生する差音に違いが生じるため男女でこの奏法の内容は大きく異なる。フルートの音と違う音程を同時に歌うことにより和音が、リズムをずらして歌うことにより2重奏が可能である。
グロウルはフルートの旋律と同じ動きで旋律を歌う奏法。ややグロテスクな音質になりサックスやギターにも負けない音圧に変化させることが出来る為ジャズのアドリブなどで好んで使われる。

ビートボクシング・フルート(フルートウィズボイスパーカッション)(英語:beatboxing flute)
フルートの特殊奏法とは厳密には異なるが、2007年ごろyoutube上で、アメリカのフルーティスト、G・パティロによるヒューマンビートボックス(ボイスパーカッション)をしながらフルートを演奏する動画が話題となった。フルートを構えバスドラム、スネアドラム、ハイハットのような音と同時にメロディやアドリブを演奏するというものである。
ビスビリャンド・トリル(カラートリル)(イタリア語:bisbiliando trillo)
運指から離れた下のほうのキーを開閉することにより、同音上で微妙に異なる音色によるトリルができる。運指によっては替え指が微分音下方になることもある。武満徹が1980年代以降の作品で多用したのはビスビリャンドに似た四分の一音下を含むホロートーントリルであり、特に『海へ』 (I, II, III) において効果的に聞くことができる。トリスタン・ミュライユはトリルではなく非常にゆっくりとした長い音符の交替による音色の変化を好んで用いる。サルヴァトーレ・シャリーノはこれに酷似しながらも違った倍音共鳴を伴うハーモニクスとを組み合わせた独自の高速トリルを開発しており、伊佐治直の作品にも見る事ができる。カラートリルはジャズにおいてビスビリャンド・トリルをする際の呼び名である。
フラッターツンゲ(フラッター、フラッタータンギング、巻き舌)(ドイツ語:Flatterzunge、英語:flutter tonguing)
巻き舌やうがいをするように喉を震わせることにより、トレモロ的効果を生み出す奏法。舌だと荒めに、喉ではマイルドになる。巻き舌によるフラッターは先天的な素養も左右するため奏者により向き不向きがあるが、喉によるフラッターは訓練次第で誰でも出来るようになる。オーケストラではR・シュトラウスが用いたのが最初とされている。マウスピースを唇で覆いながらフラッターをする事によりパイプ内に響く雑音を造り出すという奏法も存在する。
ホイッスル・トーン(ウィスパー・トーン)(英語:whistle tone)
息を送る具合を調節することにより、高音域において倍音音列に基づく非常に虚ろな音を出す奏法。表記の定まった音を出すことは非常に難しいが、倍音音列上のグリッサンドはとても効果的に響くため、逆に基音のみ指定しアドリブとしてグリッサンドを指定することも多い。第3オクターブがもっとも容易に発する音域であるが、第1オクターブも鳴らすことが可能。低音ホイッスルは野口龍氏の為に書かれた作品に頻出する。又、歌口を唇で完全に塞ぎ口内の内径を変化させることによりホイッスルトーンと似た音を奏することもできる。
ホロートーン(バンブートーン)
特殊な運指を使用することによって通常の奏法では出せない木管のようなくぐもったおとを出す奏法。民族楽器のようなテイストになる。運指表はオランダの奏者W・オッフェルマンズの物がある。
むら息(ブレス・ノイズ、尺八奏法)
上記のエオリアン・トーンをより激しくし、アクセントを加えた奏法。曲によっては日本の尺八を想起させる。
上記の特殊奏法を組み合わせ、新たな音響を作り出すことも出来る。 例 フラッター+発声奏法、重音奏法+スラップ・タンギング

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2009年03月26日

拘束具(こうそくぐ)

拘束具(こうそくぐ)とは、身体の自由を奪うための道具、衣類などの総称。
拘束具は現在では主に次のような場合に使用される。

犯罪者の逮捕
囚人からの護身・逃亡防止
自傷行為の防止
介護
犯罪行為
SM
拘束具の使用は古くから人権の問題と密接に関わりがある。現在では、囚人に対する過度の拘束による怪我、要介護者への必要以上の拘束による人権侵害などが問題になっている(詳細は後述)。

現在市販されている入手可能なものは、介護もしくはSM目的のものである。多くは簡単に解除可能であったり、施錠機構が備えられていても安全性に留意された作りになっている。

種類
拘束具は、拘束部位や形状によって個別の名称がある。

拘束衣
猿轡
手錠 指錠
手枷 足枷
首輪
ロープ
等が挙げられるが、以上ですべてではなく多種多様なものがあり、身体を拘束する目的で使われる道具・衣類・設備などで身に着けるものは拘束具に含まれる。

拘束具を巡る諸問題 [編集]
病院や刑務所、警察の留置場などで、拘束具が過度にわたって使用され、死傷者が出る事態となるケースがある。
名古屋刑務所に於ける受刑者への虐待問題では、受刑者への放水のほか、革手錠を使用されたことによって軽症を負うケースもあったとされる。詳しくは名古屋刑務所#名古屋刑務所事案の項目参照。
病院に於いては、入院患者が、身体拘束で拘束具を付けられ、死亡するケースもあった[1]。
2004年4月20日に和歌山県警の警察署の留置場で、被疑者が防声具などの拘束具を何重にも装着され、死亡する事件が起こった。この事件では、担当の署員3人が、業務上過失致死で略式起訴され、同年10月に罰金刑を受けた。また、被疑者の遺族が、和歌山県に対し損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こし、同地裁は2009年2月、5,800万円の支払いを命じ、また、「拘束具は将来的には使用しないのが望ましい」とも指摘した

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2009年03月11日

ナハニ国立公園

ナハニ国立公園は、カナダ・ノースウエスト準州にある国立公園である。イエローナイフより約500キロメートル西方に位置する[2]。公園内には、標高2,972メートルのマッキンジー山(en)を含む。ナハニ国立公園の中心部は、南ナハニ川(en)流域である。第1から第4の名前が付けられた峡谷は、壮大な峡谷を形成している。ナハニの名前は、先住民であるデネ族(en)の言葉であり、日本語に訳すると「精神」を意味する。

ヴァージニア・フォールズにおいて、水流は、水煙を立てながら、90メートルの高さを急落する。この落差は、ナイアガラの滝の約2倍である。ヴァージニア・フォールズの中心には、カナダでは有名なカヌー選手であり、著述家、映画監督でもあるビル・メイソン(en、1929年-1988年)にちなんで名づけられたメイソンズ・ロックと呼ばれる岩が存在する。また、この滝の周辺部は、ランのなかでも、希少種の生息地でもある。

現在、この滝について、カナダの首相を務めたピエール・トルドーの名前にちなんだ名称へ改名が提案されている。この滝を除いても、多くの急流がこの国立公園には点在している。

動物相・植物相
国立公園内の硫黄分を含んだ温泉、ツンドラ、山塊、トウヒ属やヤマナラシ(en)で構成される森林は、多くの鳥類、魚類、哺乳類の居住地である。ラビットケトル・ホットスプリングと名づけられた温泉地では、1万年前に形成され、カナダ国内では最大級の大きさである高さ30メートル、幅60メートルの多孔質の石灰石(en)が見つかっている[5] 。また、この国立公園は、カナディアン・エコゾーン(en)に指定されている地区の3つが存在する。西部のタイガ山系(en)、東部のタイガ平原(en)、国立公園南部のわずかを占める北方山系(en)である[1]。

フォート・シンプソン(en)のビジターセンターには、この地域の歴史、文化、地理が展示してある。ナハニ国立公園は、UNESCOの自然遺産では、最初に1978年に登録された[1]。
キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター

歴史
1972年に、ピエール・トルドー首相によって、この公園は、4,766平方キロメートルが国立公園として設定された[1]。2003年には、ノースウエスト準州のDene人とカナダ政府との間で協定が締結され、新たに23,000平方キロメートルに暫定的な保護が与えられた[2]。2007年8月には、スティーヴン・ハーパー首相が国立公園の拡大の決定を下し、新たに、5,400平方キロメートルが追加され、国立公園の面積は、33,000平方キロメートルまで拡大され、国立公園では、カナダ第三位の広さとなった[6][7]。

現在、ナハニ国立公園に行く交通手段は飛行船かヘリコプターに限定されている。毎年800から900人が国立公園を訪れている。

2009年02月22日

イヌクティトゥット語

イヌクティトゥット語(英:Inuktitut 原語表記:?????? )は、カナダのイヌイット(エスキモー)民族により広範に話される言語である。名前の意味は「イヌイットのように」。

カナダ北部のほとんどの地域に話者が存在する。具体的には、高木限界以南、ニューファンドランド・ラブラドール州、ケベック州を中心に、マニトバ州北東部、ヌナブト準州、ノースウエスト準州で話されている。また、以前はユーコン準州の北極海側でも話されていた。
スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

イヌクティトゥット語は、ヌナブト準州とノースウェスト準州で公用語となっている。また、ケベック州のヌナヴィク地域では、法的に使用が承認されている。これは、ジェームス湾及びケベック北部協定によるもので、文字を含めてフランス語とイヌクティトゥット語の学校教育が実施されている。同様に、カナダの連邦政府とニューファンドランド・ラブラドール州との協定批准により、ラブラドル半島のイヌイット地域である Nunatsiavut 地域でも法的に使用が承認されている。

カナダの簡素な人口統計によれば、約30,000人のイヌクティトゥット語話者がカナダ国内に存在すると推定される。この数値は、イヌイット居住地域外の約200人の話者も含んでいる。

イヌイットの生活圏は大変広く、イヌクティトゥット語には多種多様な方言と派生語が存在する。

ノースウエスト準州とユーコン準州
カナダ・ノースウエスト準州のイヌイットは、自分たちを Inuvialuit と呼んでいる。彼らのほとんどは Inuvialuit 居留地域に住んでいるが、マッケンジー川北部の一部、ノースウェスト準州とユーコン準州の北極海沿い、バンクス島、ヴィクトリア島の一部にも住んでいる。また、北極海の遠い島々にも不規則に住んでいる。

ノースウェスト準州のイヌイット諸語の派生語は、しばしば Inuvialuktun としてイヌクティトゥット語と共に扱われるが、それは誤解を招く不適切なものである。Inuvialuit 族の話す派生語は、次の3つの別々の方言を包含する。

Kangiryuamiutun
主にホールマンのコミュニティーで話されている。この方言は、ヌナブト準州西部の Inuinnaqtun 方言と、本質的には同一である。
Siglitun
主に、ポーラツク、サックスハーバー、ツクトヤクツクのコミュニティーで話されている。この方言は、マッケンジー川デルタ地帯とその周辺の沿岸地域、北極海の島嶼で話される主要な方言であったが、19世紀に発生した大規模な疫病の流行によって話者が劇的に減り、長い間、Siglitun方言は死語になったと信じられていた。地域外の人間は、1980年代になってようやく、この方言がまだ話されていることを認識した(Dorais, Arctic languages: an awakening (英語, PDF), 194ページ)。
Uummarmiutun
イヌヴィクと Aklavik のコミュニティーで話されている。この方言は、基本的にはアラスカ・イヌピアトゥン方言と同一であったが、アラスカ購入によりカナダと分離されたため、現在ではカナダのイヌイット方言扱いとなっている。彼らは、前述の19世紀の疫病流行により、伝統的な居住地だったSiglit地方への再移住を放棄した [1](英語)。
Inuvialuktun方言は絶滅の危機にあり、英語が近年コミュニティーの共通言語となっている。ノースウエスト準州におけるイヌクティトゥット語使用状況の調査は様々だが、いずれも使用状況に勢いがないという点で一致している。Inuvialuit Cultural Resource Centre によれば、4,000人の Inuvialuit 話者のうち10%はイヌクティトゥット語のどんな語形も話し、4%が家でのみ Inuvialuit を話しているという [2](英語)。2001年に行われたカナダの統計調査報告は、わずかだが良い結果を示している。自分は Inuvialuit であると申告した人口3,905人のうち、765人が自分は Inuvialuit 方言話者であると申告している。 しかし、この地方での非イヌイット居住者の多さと、Inuvialuit 方言話者の減少、共通方言の不足を考慮すると、ノースウエスト準州におけるイヌイット諸語の将来は暗く見える。

ヌナブト準州
ヌナブト準州は地理学的に、イヌイット生活圏としては、カナダで最大である(グリーンランドの居住に適さないアイス・シールド地域を除くとしても)。大陸だけでなく、大きな川やハドソン海峡を含む海峡に隔てられた島々、年の一部は凍っている海洋エリアも含まれる。このため、居住者の方言に大きな多様性があることは、驚くべきことではない。

ヌナブト準州の基本法では、公用語は英語、フランス語、イヌクティトゥット語、Inuinnaqtun 方言の四つと定められている。しかし、イヌクティトゥット語と Inuinnaqtun 方言は別の言語として規定されているものの、州の方針はこの二つの区別について曖昧である。Inuktitut という単語は、しばしば両方を表すものとして使われる。

イヌクティトゥット語話者の人口分析は、ヌナブト準州において特に多数を占める。ヌナブト準州には24,000人のイヌイット居住者がおり、彼らのほとんど、2001年統計によれば80%がイヌクティトゥット語話者である。この人数には、3,500人の単一言語使用者を含む。同2001年統計データによれば、高齢者にくらべ若者のイヌクティトゥット語使用率は低いが、カナダ全体で見るとイヌクティトゥット語話者の減少傾向が停止しており、ヌナブト準州においては増加をみせている。

Inuinnaqtun
ヌナブト準州の Kitikmeot 地域西部と、ノースウエスト準州のホールマンで話されている。これはイヌクティトゥット語の特定の方言として多くの特徴を持つが、最も特筆すべきは、伝統的なイヌクティトゥット語音節の欠乏である。ヌナブト準州当局は、この方言を公用語の一つとしているが、多数はそれを単なるイヌクティトゥット語のローマ文字化と考えている。しかしながら、Inuinnaqtun 方言のローマ字での表記は、ヌナブト準州の西部において、独特の表記法で行われている。
Natsilingmiutut
Natsilik と呼ばれる Kitikmeot 東部の一部で話される。何人かは、Utkuhiksalingmiutut 方言とみる。これは現在では、Gjoa Heaven で話されるが、過去はフランクリン湖及び Chantrey Inlet 地域で話されていた方言で、別のものである。
Kivallirmiutut
Kivalliq 地域からマニトバ州境までの地域で話される。
Aivilimmiutut
もと Aivilik と呼ばれていた、Kivalliq のサウサンプトン島とレパルスベイ、およびQikiqtaaluk 地域のメルヴィル半島にかけて話される。この地域には、もともと Sadlermiut が住んでいたが、19世紀後期から20世紀初頭までの間に消滅してしまった。その後にイヌイットが移住した。何人かの言語学者は、個別の方言として分けるには North Baffin にあまりにも近いと指摘している(Dorais, Arctic languages: an awakening (英語, PDF), 194ページ)。
North Baffin (Qikiqtaaluk uannangani)
バフィン島の北部の一部、Iglulik 、メルヴィル半島の近くの一部地域、Nunavut 北のイヌイット・コミュニティー(Resolute や Grise Fiordなど)の一部で話されている。この方言は、映画 "Atanarjuat: the Fast Runner"で聞くことができる。
Southern Baffin (Qikiqtaaluk nigiani)
準州都イカルイトを含む、バフィン島の南部で話されている。この方言は、イカルイトにイヌクティトゥット語のメディアができて以来、ここ何年かで広く聞かれるようになってきた。何人かの言語学者は、North Baffin または South Baffin のいずれかから、East Baffin 方言を識別する。

Nunavik地域
ケベック州はおよそ10,000人のイヌイット居住地で、ほぼ全員が Nunavik に住んでいる。2001年の統計では、ケベック州内のイヌイットの90%はイヌクティトゥット語を話すことができる。

Nunavik 方言 (Nunavimmiutitut)は、South Baffin 方言に近い関係にあるが、同一ではない。理由として、Nunavik と Nunavut には政治的および物理的距離がある。Nunavik は、他の地域と違い、個別の政府と教育機関を持っている。結果として、他の地方で育ちつつある独立したイヌクティトゥット語方言を標準化することにもなっている。Nunavik 方言では、イヌクティトゥット語は Inuttitut と呼ばれる。この方言自体は、時折 Tarramiutut または Taqramiutut と呼ばれる。

Nunatsiavut地域
Nunatsiavut 方言 (Nunatsiavummiutut 、政府文書では時折 Labradorimiutut とも)は、ニューファンドランド・ラブラドール州のラブラドール地方北部のみで話されている。明確な記法を持っているが、これは1760年代、グリーンランドのモラヴィア教会から来たドイツ人宣教師が考案したものである。この、他のイヌクティトゥット語と異なる記法と、Nunatsiavut と他のイヌイット・コミュニティーとの距離が、独特の異なった方言を形成する要因となった。この方言では、彼ら自身の方言を Inuttut と呼んでいる。

Nunatsiavut の話者がいる地域では、イヌイット人口を4,000人以上と主張している。しかし2001年の統計では、自分をイヌクティトゥット語母語話者と認識しているのは550人のみ、と報告されている。特に Nain の町で顕著である。ラブラドルにおいては、イヌクティトゥット語は危機に瀕していると言える。

Nunatsiavut 方言はまた、世評によれば西部イヌクティトゥット方言に近く、話者が Rigolet 地域にいると言われている。しかし、1999年の新聞報道では、その地域での話者は、老人3人のみであった。[3]

音韻論と音声
より理解を深めるには、英語版ウィキペディアの Inuit language phonology and phonetics も参照されたい。
イヌクティトゥット語のカナダ東部方言は15の子音と3つの母音(それぞれ長音と短音がある)を持っている。子音は、調音部位では両唇音、歯茎音、硬口蓋音、軟口蓋音、口蓋垂音があり、調音方法では無声破裂音、有声継続音、有声鼻音がある。さらに、無声摩擦音もよく使われる。Natsalingmiutut では、原始イヌイット諸語の影響を受けた形跡がみられる、そり舌音 /?/ が見られる。Inuinnaqtun では、/s/ と /?/ は /h/ に統合される。

全てのイヌクティトゥット語方言は3つの基本的な母音しか持っておらず、長母音と短母音を音韻論的に区別する。Inuukingajut 、すなわちヌナブト準州での標準ローマ字記法では、長音は重母音として表記する。
より理解を深めるには、英語版ウィキペディアの Inuit language morphology and syntax も参照されたい。
他のエスキモー・アレウト語族のように、イヌクティトゥット語も非常に豊富な形態論システムを持っている。他の言語との違いでもっとも成功している部分は、事態を表す基語が形態素として加えられていることである。たとえば英語のような言語では、同じことを表現するのにいくつかの単語を必要とする(膠着語と抱合語を参照)。全ての単語は根形態素 root morpheme で始まり、他の形態素が接尾辞として添えられる。イヌクティトゥット語は100語以上の異なった接尾辞を持っており、いくつかの方言では700語近い。

幸運にも、学習者から見て、この言語は非常に規則的な形態論を持っている。とても複雑なルールもあるが、その複雑さの程度は、英語やインド・ヨーロッパ語族ほどではない。

記法
イヌクティトゥット語は、方言、地域、さらに歴史的・政治的要因に起因して、いくつかの異なる記法を持っている。

イヌクティトゥット語の記法を最初に始めたのは、前述の通りラブラドルに来たモラヴィア宣教師達である。彼らはグリーンランド語とラブラドルで使われていた方言に、文字 kra を加えて、ローマ文字アルファベットによる記法を開発した。このグリーンランド方式は、ラブラドル方言独特の記述のため、カナダ先住民記法を基礎に、近年根本的に改良された。

ヌナブト準州の西部とノースウエスト準州では、Inuinnaqtun をローマ文字アルファベット記法で書き表している。これは、19世紀末から20世紀初頭にかけてこの地域に到達した宣教師の影響が大きい。

カナダで使われているイヌクティトゥットの文字は、クリー文字を基礎に、宣教師のジェームス・エヴァンスが考案したものである。1970年代にカナダ・イヌイット文化協会 Inuit Cultural Institute in Canada は、カナダ・イヌクティトゥット記法を用いた。アラスカのイヌイット、Inuvialuit 、Inuinnaqtun 話者、グリーンランドのイヌイット、ローマ文字を使うラブラドルのイヌイットは、それぞれ別の記法を用いている。

イヌクティトゥット文字表は、慣例通り「字音表 Syllabary」とされていたが、これをアブギダ abugida (en) とする意見があり、いくつかの子音が、文字として認識された。

全てのイヌクティトゥット文字は、ユニコード3.0文字セットに収録され、利用可能になった( Unified Canadian Aboriginal Syllabics character table(英語)を参照)。ヌナブト準州政府は、Pigiamiq フォントをTrueType形式で提供している。これは、バンクーバーに拠点を置く Tiro Typeworks 社がデザインした。

2009年02月06日

考古学のジャンル/さまざまな考古学

水中考古学
インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

水中にある遺跡や遺物などを調査する考古学。19世紀スイスの杭上家屋跡の確認を契機に、フランスのクストーが世界各地の海底遺跡の調査を開始したのが始まりである。日本でも、地すべりで琵琶湖湖底に沈んだ古代の集落や、長崎県鷹島沖の元寇の際の沈没船などの研究が行なわれている。
宇宙考古学(衛星考古学)
1972年にランドサット1号が打ち上げられて以来、人工衛星データによる地球観測の技術は、気象、災害、環境、海洋、資源など、さまざまな分野の調査や研究に応用され、これまでに多くの成果をあげてきた。衛星に搭載されるセンサの解像力が高度化し、マイクロ波センサや赤外線により地表の状況がより明確に観測できるようになると、衛星データの応用範囲はさらに多様化し、密林や砂漠の下に埋もれた古代の都市や遺跡の検知なども可能となってきた。この宇宙からの情報技術を考古学研究に応用したのが宇宙考古学である。坂田俊文は、この方法によってエジプトの未知のピラミッドを発見している。
環境考古学
考古遺跡から出土する遺物の中でも、特に動植物遺体などの分析から、当時の食生活や漁獲対象、延いては周辺の気候・植生を復元する考古学。分析する遺体は、貝殻・獣骨(動物考古学と限定することもある)などの比較的大きなものから、土壌を選別(篩掛け)することによって得られる花粉・寄生虫卵などがある。1980年代以降、考古学における理化学研究の進展に伴い提唱された。渡辺誠・松井章らによる研究が詳しい。
地震考古学
地震の痕跡を考古学の遺跡からさぐる学問。1980年代に寒川旭らの研究者により提唱された新しい研究領域である。
産業考古学

実験考古学
道具の製作・使用を実験することによって、製作の原理や方法・製作技術、使用方法や利便性・効用、製作や使用にあたっての留意点・問題点などを探ろうとする研究領域。例えば、実際に原石を割って石器を作ったり、粘土から土器を作って調理までする研究などがこれにあたる。
第2考古学
従来の考古学で主流をなしている編年研究、過去についての知識ではなく、考古学独自の思考方法を探ろうという研究。
戦跡考古学
近現代における国内の戦争の痕跡(戦争遺跡)を扱う我が国の近現代考古学の一分野。対象となる戦争遺跡は単に戦闘の跡に留まらず、師団司令部や航空機の墜落跡、水没艦船、防空壕、軍需工場、さらには現存する当時の精神的支柱(八紘一宇の塔・忠魂碑)などと、非常に多岐にわたる。1984年に沖縄県の當眞嗣一氏が提唱した。戦跡考古学に対しては、民俗学や建築学など様々な方面からのアプローチが可能である。一部では外国の戦跡の研究(中国の虎頭要塞・731部隊施設の研究、南洋諸島に点在する旧日本軍の軍事兵器など)も行われている。研究者として、坂誥秀一らがあげられる。
認知考古学
認知科学、心の科学などの研究成果を援用・応用した考古学的研究。
歴史考古学
考古学の研究法を、従来の文字の無かった時代だけでなく、文字史料が現存する時代にも応用しようとした研究。主に奈良時代以降を指すことが多い。遺構や遺物の存在が文献資料と食い違い、文献資料とは異なったり、また記録されていなかったり、不明瞭な記録に対して、全く違う事実が判明した例(法隆寺再建論などが顕著な例)もある。

考古学の方法
データの収集
年代の決定
総合的解釈

考古学の成果

世界の古代文明・先史文化
四大文明
古代エジプト文明
エジプト神話
メソポタミア文明
インダス文明
中国文明
黄河文明
長江文明
メソアメリカ文明
オルメカ文明
テオティワカン
マヤ文明
トルテカ文明
アステカ王国
アンデス文明
チャビン文化
モチェ文化
ナスカ文化
ティワナク文化
ワリ文化
チムー王国
インカ帝国(タワンティン・スウユ)

考古学からみた日本
旧石器時代
縄文時代
弥生時代
邪馬台国
古墳時代
前方後円墳
歴史時代

日本列島の北と南
オホーツク文化
大学合同考古学シンポジウム
沖縄県の歴史
グスク

2009年01月22日

ライタイハン

ライタイハンとは、韓国がベトナム戦争に参戦した際、韓国人男性とベトナム人女性の間に生まれた二世のこと。パリ協定による韓国軍の撤退と、その後の南ベトナム政府の崩壊により取り残され、「敵軍の子」として迫害された[1]。ライはベトナムで軽蔑の意味を含めた「混血雑種」、タイハンは「大韓」のベトナム語読みである。
ライタイハンの正確な数は、諸説ありはっきりしない。1500人(朝日新聞・1995年5月2日)、2千人(野村進)、最小5千人(釜山日報・2004年9月18日)、7千人、1万人以上(名越二荒之助など)、最大3万人(釜山日報・同)としているものもある。彼(彼女)たちの中には父親の記憶を持たず、韓国語を話せず、写真だけが唯一残された思い出という者がいる[2]。韓国との混血児は名乗りでないとの主張もある[3]。正確な調査が行われないまま、援助団体が支援を主張したため、数が膨れ上がったとの批判もある[4]。しかし、集団として注目できる、まとまった数の混血児が発生したのは事実である。
パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

原因については「無責任にも妻と子供を捨ててに韓国で帰国したこと」(釜山日報、2004年9月18日)とする現地婚、「ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。韓国との混血児は名乗り出ないので、はっきりとした数は判らないが、一万人以上はいるはずだ。」(名越二荒之助「日韓2000年の真実」~ベトナムの方がのべる韓国の残虐行為~P672)とする慰安婦(非管理売春)などと言われている。また、日本のインターネット上では、ベトナム解放戦線の放送が韓国軍による拷問や虐殺事件、あるいは婦女子への暴行事件を連日報じていた(亀山旭『ベトナム戦争』P122)ことや猛虎師団の一兵士が村の娘を強姦した(同p127)こと、そうした事件を報道する韓国マスコミ(1999年5月256号ハンギョレ21 など)を引用するかたちで原因を強姦とする意見が多く見られる。しかし、まだ十分な調査がおこなわれておらず、正確な原因は究明されていない。

背景 韓国のベトナム派兵
当時の朴正煕政権は反共を国是とし、分断国家としてのシンパシーを訴えて派兵を推進した。安聖基は「参加する方では『男に生まれたからには、一度は戦場に赴かねば』という気風がありました」とも指摘している[5]。南ベトナムに派兵された韓国軍は、2個師団プラス1個旅団の延べ31万名。最盛期には5万名を数えた。また、「ベトナム特需」を当てこんだ産業資本や出稼ぎの民間人も進出し、これも最盛期には2万人近く[6]がベトナムに赴いた。ライタイハンはこれら韓国人男性とベトナム人女性との間に生まれた。

兵士や出稼ぎの民間人による本国への送金は、年に1億2千万ドルを数え、1969年の韓国の外貨収入の2割に達した[6]。アメリカによる軍事・経済援助、日韓基本条約による資金援助と合わせて、漢江の奇跡の基礎となった。

マスコミの対応
後の大統領である全斗煥、盧泰愚はともにベトナム派兵で活躍した指揮官だった。最大の圧力団体である軍部の存在もあって、韓国ではベトナム戦争を批判的に取り上げることをタブー視する雰囲気が存在した。しかし後年、徐々に国民の意識が変わり、ライタイハンをテーマとしたドキュメンタリー[8]が放送されたり、ハンギョレのようにベトナムでの韓国軍の戦争犯罪やライタイハン問題を積極的に取り上げる動きもある。だが、その都度、退役ベトナム参戦兵士団体から強い抗議を受ける事実もある。

ライタイハンへの援護策
ライタイハンが表面化して後も、韓国政府による積極的な援護策は取られていない。しかし韓国のキリスト教団体とベトナム政府の支援により、支援施設(職業訓練学校)が設立され、無償での職業訓練と韓国語の教育が行われた[9]。

またライタイハン自身が、韓国人である父親に対して実子であることの認知訴訟を起こし、判決により韓国国籍を取得する動きもある[10]。盧武鉉政権は2006年に、写真など客観的に立証できる手段があれば韓国の国籍を付与する法案を検討するとした[11]。

ベトナムと韓国が経済交流を再開して後に発生した混血児は「新ライタイハン」と呼ばれる。

その他 アメラジアン問題
戦時下のベトナムにおいては、米兵とベトナム人女性との間にも多くの混血児が産まれた。一説には1万5千人ないし2万人、あるいは10万人とも言われる。統一後のベトナムでは、ライタイハン同様に「敵国の子」とされ、迫害の対象となった。1987年、米国政府は混血児とその家族の移住を受け入れ始めたが、なおベトナムに留まる者もいる[12]。詳しくはアメラジアンを参照のこと。

関連項目
韓国の戦争犯罪
人権問題
黄金の花嫁:ライタイハンがヒロインのテレビドラマ。キョン・ミリなどが出演。

参考文献
亀山旭 『ベトナム戦争-サイゴン・ソウル・東京-』、岩波書店〈岩波新書〉、1972年。第五章『ベトナムの韓国軍』。戦時下の南ベトナムと、韓国軍や韓国人の関わりを知ることができる。また、この中で韓国軍の兵士がベトナム人の母と子を置き捨てて帰国したため、軍司令部が再志願させてベトナムに戻し、結婚式を挙げさせた旨の記述がある。『週刊アンポ』第6号(1970年1月26日)の版がベ平連のサイト[1]で読めるが、岩波版と記述に一部差異あり。
野村進 『コリアン世界の旅』、講談社、1996年、ISBN 978-4062080118。第六章『サイゴンに帰ってきた韓国兵たち』で韓国のキリスト教団体が設立した「職業訓練学校」を訪問している。
名越二荒之助 『日韓共鳴二千年史』、670-675頁、明成社、2002年、ISBN 978-4944219117。なお、同著は『日韓2000年の真実-写真400枚が語る両国民へのメッセージ』(1997年)を改題改訂したもの。
宮崎真子 「『ホワイト・バッジ』にみる韓国社会」、『世界』、岩波書店、1993年8月。
朝日新聞 1992年4月24日及び12月23日、1995年5月2日、1999年1月8日。
(朝鮮語)コ・ギョンテ 「ライタイハンを売るな」、『ハンギョレ21』第258号(電子版)、1999年5月20日。
(朝鮮語)『朝興国交の東南アジアのぞき見ること <17> ライタイハン問題』、釜山日報、2004年9月18日。
^ 釜山日報、2004年9月18日。
^ 宮崎真子、1993年、265頁。
^ 名越二荒之助、2002年、672頁。
^ コ・ギョンテ、1999年。
^ 宮崎真子、1993年、263頁。
^ a b 松岡完 『ベトナム戦争-誤算と誤解の戦場』、219頁、中央公論新社〈中公新書〉、2001年、ISBN 978-4121015969。
^ 野村進によれば、これら混血児たちの父親の90%は韓国のビジネスマンであり、ベトナム人女性との間に子供をもうけた後に「母子を置き去りにして帰国してしまった」例が多いという。『コリアン世界の旅』、173頁。
^ SBS放送『大韓の涙』(1992年9月放映)。
^ ただし、ライタイハンの支援よりも、ベトナム国民を対象とした活動になっているとの批判がある。コ・ギョンテ、1999年。
^ (日本語)『韓国人・ベトナム女性との子ども「ライタイハン」ルーツ探し訴訟相次ぐ』、東亜日報、2002年7月26日。
^ (朝鮮語)『「ライタイハン」韓国国籍付与検討する』、ハンギョレ、2006年4月26日。
^ 読売新聞、1985年4月15日、1995年5月2日、1996年12月3日。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8F%E3%83%B3" より作成

2009年01月15日

中国の道教では魂と魄(はく)という二つの異なる存在

あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

中国の道教では魂と魄(はく)という二つの異なる存在があると考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)ともいう。魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。民間では、三魂七魄の数があるとされる。三魂は天魂(死後、天に向かう)、地魂(死後、地に向かう)、人魂(死後、墓場に残る)であり、七魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望からなる。また、殭屍(キョンシー)は、魂が天に帰り魄のみの存在とされる。(三魂は「胎光・爽霊・幽精」「主魂、覺魂、生魂」「元神、陽神、陰神」「天魂、識魂、人魂」、七魄は「尸狗、伏矢、雀?(陰)、容?(吝賊)、非毒、除?(陰穢)、臭肺」とされることもある。)

日本の土俗信仰や神道
日本神話には、イザナギが黄泉の国にいるイザナミを訪ねるという話がある

霊は怨霊・悪霊となって人間に病気や災いごとをもたらすともいわれ、日本では特に平安時代を中心として、天災や伝染病を非業の死を遂げた人物の怨霊の祟りとして恐れ、これを鎮め祀ることで社会の平安を願う御霊信仰が興った。その代表が菅原道真を祀る天神信仰である。

神道では、特に優れた事績を残した人物の霊魂は、神あるいはこれに相当する存在となると考えることがある。

尊敬語はいずれも御霊(みたま)。また明治以降、戦死者の魂のことを敬っていう場合は特に「英霊」(えいれい)という[6]。

イタコなど、霊と交流することができる霊媒の能力を持つと自称する人も存在する。

外部リンク
日本人の霊魂観

心霊主義など
霊魂は死者の身体からのみならず時に生きた人間から抜け出す「幽体離脱」を起こし、宙に浮かび「浮遊霊」あるいは「亡霊」としてさまようことや、それが他の生物に乗り移る「憑依」を起こすこともあるといわれている。あるいは高い能力を持つ霊は「守護霊」として人間を守護したりするともいう。

霊媒が霊を説得したり、鎮めたり、祓ったり、あるいは浄化することによって病気や不幸を取り除くことが出来る「心霊治療」という話もよく聞かれる。

懐疑主義
その実在や根拠の論理的な証明がきわめて困難であり、人間には知ることが出来ないか、または知りえる機会がまだ訪れていないとする立場(未来には技術の進歩などで知ることが出来るようになるかもしれない)。霊魂などの存在を必ずしも否定していない点では無神論と異なる。 このうち永久に知ることが出来ないとする立場は不可知論に連なる。

古代インド
仏教興隆期のインドのサンジャヤ・ベーラティプッタは来世に関する4つの問いを設け「来世は存在するか?」「来世は存在しないか?」「来世は存在しかつ存在しないか?」「来世は存在するわけでもなく、存在しないわけでもないか?」それぞれすべてに対して「私はその通りだとも考えないし、別だとも考えない、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない」として確答を避け、不可知論の立場をとった。このような態度はゴータマ・ブッダの無記の立場と通じあう点がある、とされる[7]。仏教では「無我」を説いて霊魂を否定した、ともされる[8]。また初期仏教では「無我」は「霊魂がない」と解するのではなく「非我」の訳語が示すように、「真実の我ではない」と解すべきもの(自他平等の境地を目指した思想)である、ともされている[9]。

現代の懐疑主義
現代の懐疑主義者らは、主として心霊主義などの霊魂の検証の方法の不備などを指摘し、それを疑似科学だとしている。[10]そして霊魂はオカルトや迷信だとしている。[11]現代の懐疑主義は宗教が衰退した時代背景を反映して、無神論・無宗教に近くなっている一面がある。(そうでない人も居る)

学問
霊魂については、民俗学や文化人類学などといった人文科学からの研究がある。霊や魂といった概念の変遷についての研究などがある。

術における霊魂
芸術の領域からみると、霊魂の存在あるいは、霊魂になって何かをするというのは、一つの魅力的なテーマである。日本神話にも、イザナギが黄泉の国にいるイザナミを訪ねるという話があるし、似たモチーフは世界の他の神話にも見受けられる。

映画「21g」:人が死ぬ前と死んだ後で21gだけ重さが違うという話があり、それをモチーフにした映画。

霊魂と死生観・全人的健康
死生観の説明は世界観の根幹の一つであり、世界中の文化や信仰・宗教に見られるものである。死生観、すなわち、わたしたち人間にとって「人は死ぬと(その意識は)どうなるのか」ということは、人間が出現して以来文化・文明や学というものを手にしてもなお、我々に与えられた最大の問いである。 古来より多くの神話や宗教、哲学、芸術などの根本的な目的の一つは、これら人の生死を含む世界観や体系の説明であり、為政者や宗教者にとって最も重要な課題そして概念であった。

現代においても、魂を肯定的にとらえることが、生きがいや健康といったものと深く関係があることが、様々な学者の研究によって明らかにされている[12]。

死に臨んだ人々に寄り添う看護(特にターミナルケア、死の準備教育など)の現場では、スピリチュアルなケアをすることも大切な課題となってきている。また、ターミナルケアに限らず、日常においても人が本当の意味で健康に生きる上で重要である、ととらえられることも増えてきている。[13]

世界保健機関(WHO)は1984年の第37回総会で決議された「西暦2000年までにすべての人々に健康を」の決議前文で、健康が含むスピリチュアルな側面について言及した。さらに、1999年の総会においては、健康の定義文に以下の語も加えることを提案した。

健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない。

脚注・出典
^ 吉村作治『ファラオと死者の書 古代エジプト人の死生観』p.37
^ 吉村作治『ファラオと死者の書』p.41
^
Allen, James Paul. 2001. "Ba". In The Oxford Encyclopedia of Ancient Egypt, edited by Donald Bruce Redford. Vol. 1 of 3 vols. Oxford, New York, and Cairo: Oxford University Press and The American University in Cairo Press. 161?162.
Allen, James P. 2000. "Middle Egyptian: An Introduction to the Language and Culture of Hieroglyphs", Cambridge University Press.
^ 吉村作治 同書 p.55
^ 吉村作治 同書 pp.74-75
^ 大辞泉
^ 岩波書店『哲学・思想事典』、「懐疑主義」の項
^ 岩波『哲学・思想事典』、「霊魂」の項。
^ 同項。
^ 霊魂が関係することがらは、商法などの法律あるいは司法的議論に馴染まない点や扱いづらい点が多々あり、悪意がある者などによって霊感商法などの詐欺の手段として用いられることがあるので、そういった場面では懐疑主義も一定の役割を果たしている。
^ これらの言葉はレッテル貼りに使われやすい一面もある。
^
大石和男、安川道夫、濁川孝志、飯田史彦「大学生における生きがい感と死生観の関係」(健康心理学会『健康心理学研究』2007年末掲載)
(大石和男は専修大学教授、安川道夫は専修大学教授、濁川孝志は立教大学教授、飯田史彦は福島大学教授)
熊野道子 2003「人生観のプロファイルによる生きがいの二次元モデル」(『健康心理学研究16』pp.68-76)
熊野道子 2005「生きがいを決めるのは過去の体験か未来の予期か?」(『健康心理学研究18』pp.12-23)
佐和田重信、興古田孝夫、高江州なつ子他 2003「伝統的信仰意識が地域高齢者のメンタルヘルスに及ぼす影響についての検討」(『民族衛生69』pp.124-125)
興古田孝夫、石津宏、秋坂真史、名嘉幸一、高倉実、宇座美代子、長濱直樹、勝綾子 1999「大学生の自殺に関する意識と死生観との関連についての検討」(『民族衛生65』pp.81-91)
飯田史彦『生きがいの創造III』PHP研究所、2007年、ISBN 4569694489
^ 関連文献: 竹田恵子、太陽好子『日本人高齢者のスピリチュアリティ概念構造の検討』(川崎医療福祉学会誌 Vol.16, No.1, 2006 53-66)
^ 『健康と霊性』宗教心理出版、2001年、ISBN 4879600571